2016年3月15日火曜日

音の粒を揃えることはいいことなのか

先日、京都のカフェモンタージュ(かなり濃いクラシック奏者が出演する場所)で、我が師匠である竹内太郎氏のライブがありました。バロックギター(コピー楽器でなくてオリジナル!)での演奏。

僕ら弟子達にはおなじみの、いつものリラックスした、でもそれでいて興奮するような演奏。
プログラムはクラシックギター奏者にはおなじみであるド・ヴィゼの「ニ短調組曲」、「パッサカリア」「仮面舞踏会」、コルベッタのシャコンヌ、即興のスパニョレッタなど。
ド・ヴィゼの組曲は、本当は組曲としては書かれていなくて、同じ本に入っている同じ調性の曲を取ってきてまとめて演奏するもの。竹内師匠としては「組曲」って書きたくなかったのでしょうが、日本でのクラシックギター界では「組曲」って書くのが一般的、というか、そう書かないと通じないですね。

本当にいいライブでした。楽譜通りではなくて、完全に曲を消化して、自分のものにして弾くこと。ロックやポップスの大舞台のもショー的で面白いけど、本来、音楽ってこういうもんなんやな、と思わせてくれる内容でした。このレベルの音楽家を普通に聴ける(観れる)ようになったらいいな。

で、ライブ会場でCDを買いました。


「可愛いナンシー」。バロックギターとイングリッシュギターというマニアックな内容です。バロックギターの音なんか、渋めの、低いけれど同時に高い音成分が聞こえるような、なんとも言えない音。

僕がリュートを始めた頃は、この音の逆で、古楽器というとコロコロと転がるようなクリアな音の楽器で録音されたものをよく買いました。それが古楽器(リュート、バロックギターなど發弦楽器)の音だと思ってた。竹内師匠に習い始めてから、師匠は全然違う感覚をもっているな、と気づいたのはここ数年、最近のことでした。

昔の自分では、この音(竹内師匠の音)をいいとは思わなかったでしょう。でも、悪い音ではないのです。クリアではないですが、喋ってるような感じっていったらいいのかな。朗々と歌う感じではないのです。今は、こちらでないと居心地が悪いかな。音と音楽への考え方を含めての話。

最近は19世紀〜20世紀初め頃の演奏も、現代的にやるのではなく当時の方法でちゃんとやってる人、増えてきましたね。YouTubeでもいい感じのものが見つかります。僕らが少し前まで持っていた感覚と明らかに違う。

音は粒を揃えない、クリアな音質を求めない、演奏を均質にしない。

数学などでは均質な平面、空間を扱いますが、逆にフラクタル幾何学などでは、自然は均質ではない、ということも発見されています。
哲学でもメジャーな「白人男性」をやめて「有色人種」「女性」「マイノリティ」になれ、なんていう人もいます。

現代の学問は僕らが考えているような「平均」「均質」を考えていないですね。
古楽の最先端と現代学問の最先端が奇妙に一致します。

そろそろ均質、平等を求める考え方とは決別しなくてはいけません。






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